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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第三章 超非常時態勢下の学苑

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一 職制の縮小と空襲対策

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 学徒出陣により学苑は超非常時を迎えるに至り、応急対策の第一として多数の兼任教員の解任を時を移さず断行したことは、前編九八八―九八九頁に記述した如くである。更に、これより半年後には職制も縮小を余儀なくされ、十九年四月、本部の文書課、学生課、人事課の三課を廃止し、庶務部に厚生課、秘書課を、教務部に教練課をそれぞれ新設した。それと同時に、学部事務では政、法、文、商各学部と高等師範部の事務所を廃止、新たに法文科事務所を設置し、事務の簡素化を図った。こうした職制改革は人事異動を伴い、比較的高給を支給されていた古参の課長三名と主事八名は三月三十一日限りで依願解職になった。しかし、学部事務所の統合は、各学部にはおのおの設立以来の長い伝統や慣習もあり、連合事務所では十分に機能を果せず、失敗との声も夙に聞かれたのであった。

 翌二十年には、中野総長は幹事および副幹事制の廃止という職制の大改革実施を決意し、三月二十九日の理事会は、経理部長永井清志、教務部長岡村千曳、庶務部長大島正一の三幹事(既に田中総長に対し一年前に辞任を申し出て、慰留されていた)ならびに副幹事教務課長小沢恒一の依願解職を決議した。次いで四月二十七日の理事会は、更に教務部(教務・学生の二課)、経理部(会計・調度・施設の三課)、庶務部(庶務・人事の二課)の三部七課制に改め、同時に学徒錬成部を廃止してその事務を学生課に吸収して管掌させ、また、何かと支障のあった法文科事務所の廃止を決定し、これらを五月一日より実施して、一層簡素で強力な職制を布いた。なお、教務部長には原田実、庶務部長には丹尾磯之助、経理部長には大原宇之一郎が嘱任され、給与の節減と、ややもすれば沈滞の色を見せていた空気の一新とが図られたのである。

 加えて、空襲対策もきわめて切実なものとなった。十九年二月十九日には、従来の職員中心の特設防護団を全学一致の態勢に改めてその結成式を挙げている。翌二十年三月五日には、学苑に残留した理工学部一年生と専門部工科一年生とで成る学徒消防隊が結成式を行い、それぞれ消防署に配属されるなど、これらが「帝都」防衛力となったのである。これと並行する形で、学苑施設の防空対策として、理事会は十九年十月五日、理工学部の木造校舎の一部を取り毀して防空施設の工事を行うこと、翌二十年三月一日には、理工学部実験室屋上のアンテナや戸塚道場の照明塔の撤去、五月十日には、第二高等学院に近接する木造建物四棟の取り毀しと次々に決定していった。教職員の中には、これらの古材木をもらって自宅に防空壕を構築した者もあったとのエピソードも残っている。

 その上、十九年夏より急速に軍需国策に応じて学苑の備品や施設そのものの貸与あるいは供出・譲渡が相次いだ。以下に掲げる理事会の決定や報告により、必ずしもすべてが実施されたかどうかは不明であるが、そうした対応を学苑が示したのを窺うことができるであろう。

十九年七月十一日 軍事教練用銃器の兵器補給所への売り渡しを報告。第一高等学院校舎一部と学生用机、腰掛等との陸軍軍医学校への貸与を決定。

七月二十九日 文部省照会による建物転用に関し協議。

八月三十一日 文部省総務局よりの白金・合金供出通牒に対し、研究用として消耗を補充できない現況から供出できない旨回答。

九月十三日 第一高等学院建物転用に関する東京師団経理部との賃貸借契約締結を決定。戸塚道場スタンド鉄骨、照明塔の一部供出を決定。

十月五日 東伏見錬成道場の中島飛行機株式会社への貸与を決定。

十月十二日 大隈会館内体育道場は近く高等工学校の木材工業科実習場として日本航空機工業株式会社の作業場としたき旨、軍需省よりの申入れを協議。

十月二十六日 高等工学校実習工場として日本航空機工業株式会社早稲田大学勤労所開設を可決。向島艇庫につき陸軍獣医資材本廠監督工場吉岡製作所と賃貸契約を決定。

十一月十六日 文学部校舎転用に関すること可決。

十一月三十日 文学部、専門部の教室および事務室を陸軍、農商両省へ貸与のため、転用準備を協議。甘泉園の一部を陸軍航空本部において軍事施設のため転用を承認。大隈小講堂に東京都予備救護所設置を承認。中島飛行機株式会社よりの東伏見替地申込みに関し交渉を進めることを協議。

二十年一月十一日 銅像を取り外して屋内に保管し、銀牌を全部供出することを決定。

一月二十五日 大隈講堂地下室に食料営団より食料保管の件報告。

三月一日 甘泉園の一部土地を陸軍航空本部経理部東部出張所と賃貸借契約のこと可決。

三月十五日 久留米錬成道場の建物一部の軍部への貸与を決定。

四月二十七日 文学部教室、武道館を東部軍の使用に供することを決定。

六月七日 学生用机、腰掛各三百個の陸軍経理部への譲渡を決定。

七月十二日 大隈会館の焼け跡一部、戸塚道場の一部の憲兵司令部へ農耕地として貸与を決定。

 更に、学徒や教職員自身の空襲被害対策や各種動員に対する対応にも迫られた。十九年十月二十六日の理事会は、「早稲田大学学徒報償取扱要綱(暫定)」を制定して十一月一日より実施することとし、十一月三十日には特設防護団員に対する戦時生命保険契約額を決定した。次いで、正月の三が日が各事務所人員の約三分の一の交替出勤で始まった二十年に入り、理事会は、二月八日臨時戦時手当、同家族手当を改正し、全職員に昼食手当を支給することを決めるとともに、勤労動員関係教職員に対する戦時生命保険について協議し、五月十日には、勤労動員に派遣される教職員に対し戦争死亡傷害保険五千円の付保を決定している。三月八日には、一六六頁に後述する如く、「空襲罹災者弔慰金・見舞金内規」を決定した。すなわち、専任教員と一年以上勤続の職員に対して、死亡者弔慰金(本人五百円、配偶者・直系尊属家族一名につき百円)、重傷者見舞金(本人二百円)、住宅焼失見舞金(自己所有家屋五百円、借家三百円、間借二百円)、住宅崩壊見舞金(自己所有家屋三百円、借家二百円、間借百円)を支給することにしている。

 また、空襲に明け暮れる中では、昭和二十年度入学試験として従来の如く入学志願者を一堂に集めての学力試験実施は困難となり、内申書に基づく人物・智力の総合考査により判定するという緊急措置を採るに至った。すなわち、具体的には、従来の各学校からの入学実績を調査し、これを基本として入学者の選定を行ったのであった。学苑への入学を志す者は戦争末期にも依然として多く、この時も、後述の如く、定員の八―九倍に達したとの説さえあり、入学考査の事務処理は繁忙を極めた。他方、学苑の最高議決機関である維持員会の開催に際して、維持員の中には出席が覚束なくなった者もあり、五月十五日の維持員会は、非常措置として、定足数不足の場合でも緊急やむを得ない事項に限り出席維持員のみで決議できるとの決定を行っている。

 そうした最中の五月二十五日、一四〇頁以降に詳述する如く、学苑は空襲により甚大な被害を受け、およそ三分の一の施設を焼失した。学苑は大正十二年の関東大震災でも被害を受けたが、今回の被害はその比ではなく、百年史上最大の罹災であった。従って、なお一層の空襲被害を予期して、六月に入ると、理事会は各事務所職員に対して、事務に差支えない限り月二回の休日を考慮しつつ、日曜日および祭日の休業を廃止して出勤させる措置を決定し、また、各事務所の重要書類を複製するよう決定して教員にも手伝いを依頼する方針を採った。例えば、政治経済学部の百点満点で記載された成績原簿は、年度によっては空襲で焼失してしまったが、優・良・可で表示された個々の学生の成績表が残っていたので、勤労動員されていない教員によりその複本の作成が行われている。学苑にとり最も重要な学籍簿や成績簿の大部分が今日に至るまで保存されているのは、この時の原簿の保管や複製の努力の賜なのである。六月二十六日には学苑の建物の火災保険金額を二千四百万円に増額するなど、罹災した中で、息つく暇なく新たな対応に追われる日々が続いた。

 学苑が重要書類や貴重器具類保全のため最後の措置として疎開に踏み切った際には、詳細な記録が乏しく、経緯と規模の全貌は明らかとは言い難いが、その実施は七月より八月の敗戦直前にかけてであった。本部関係の書類や器具は大浜信泉、末高信、中島正信らが担当し、戸塚町一丁目の斎藤運送店に荷作り運搬を依頼して、七月十九日、二十日に埼玉県秩父郡吉田町に疎開させ、二十一日より二十三日までに久留米道場にも運んだ模様である。またこの頃、図書館と演劇博物館の図書も、埼玉県大里郡八基村(現在の深谷市豊里の一部)、榛沢村(現在の大里郡岡部町の一部)に疎開させた。図書館の疎開図書は時局がら『官報』のみであったという(当時の館員洞富雄直話)。やがて図書館では、貴重な洋書を多数含む小寺謙吉寄贈の「小寺文庫」を疎開させる計画を進めた。この件に関し、当時図書館副館長であった小松芳喬は、「その頃、たまたま家族が疎開していた岩手県盛岡市郊外の繁温泉に行く機会がありましたので、その付近で図書の疎開先を物色し、雫石の奥の秋田県の県境に近い所で、口約束の形で土蔵を借りる契約をしました。そして、帰京してすぐ桜田本郷町近くの小学校にあった軍の輸送本部に掛け合って、運搬貨車の手配をするとともに、小寺文庫を荒縄で縛って図書館ホールに並べ、発送できる態勢を整えました」(直話)と回想している。また、こうした一連の図書疎開作業に携わった洞富雄も、「図書の一部を慶応義塾大学の高村象平氏の斡旋で疎開させる交渉のため、小松副館長の書簡を持って信州に赴いたことがありました。途中、列車が空襲に遭って立ち往生したりしました。当時は梱包する材料がなかなか手に入らず困ったものです。既に終戦になるような気配が我々にもそれとなく察せられましたが、とにかく、焼失しないように貴重な図書を守らなければ、ということで、一時は皆大変でした」(直話)と、その一端を回顧している。しかし、これらはいずれも発送の直前に敗戦を迎え、疎開の必要がなくなったのであった。図書館の図書が空襲下にも拘らずすべて焼失を免れたのは、戦後の我が学苑における教員や学生の研究のみならず、広く学界にとっても、どれほど幸いであったか、量り知れないものがあると言わなければならない。一方、理工学部の場合の一端を、内藤多仲は「図書なんかも相当疎開して、学生自身も疎開して、信州の山の中で一クラス全体一緒に疎開してまして、そこへ私は出張して講義したりした。図書もそこへ疎開したり、それから伊豆の大仁へ疎開した。一年は大仁、二年は信州の山の中」(「座談会 激動の日日」『早稲田学報』昭和四十二年七月発行 第七七三号 一八頁)と回想している。

 かくして、勤労動員や空襲に明け暮れ、疎開対策に追われていた真っ只中の八月十五日、長かった戦争に終止符が打たれた。

二 興亜人文科学研究所の設立

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 しかし、超非常時態勢の中でも、例えば、早稲田大学興亜人文科学研究所の設立が昭和十九年三月二十二日の維持員会で決議され、四月五日付『早稲田大学新聞』は左の如く報じている。

興亜経済研究所、東亜法制研究所並に世界政治研究所は今般発展的解消をなし、これ等を一元的に綜合して、新に早稲田大学人文科学研究所が新学期から逞しく発足することとなつた。……所長は総長兼任とし……各分野に分離して存在してゐた人文科学に関する諸研究機関が今後は綜合統一され、その連携を密にする観点からその成果は飛躍的に効力を発揮するものと期待される。

右文中の新研究所名は「早稲田大学興亜人文科学研究所」の誤りである。なお、世界政治研究所は、政治経済学部政治学科の中野登美雄、大西邦敏、川原篤らを中心として結成された同志的研究集団の名称で、大学なり学部なりの正規の機関ではない。『田中穂積日記』には世界政治研究所を設置してほしいとの申し出のあったことが記されているが、学苑の付属機関として具体化されることはなかった。

 維持員会で承認された「早稲田大学興亜人文科学研究所規程」は、新研究所の目的と事業を左の通り定めている。

第三条 本研究所ハ国家ノ進運ニ寄与スルノ目的ヲ以テ大東亜ノ人文ニ関スル科学上ノ綜合的調査及研究ヲ行フモノトスル。

第四条 本研究所ハ前条ノ目的ヲ達成スル為メ左ノ事業ヲ行フ。

一、学術的調査及研究

二、調査及研究成果ノ発表

三、調査及研究ノ指導育成

四、研究会、講演会及講習会ノ開催

五、調査及研究ノ受託

六、資料ノ蒐集及保管

七、官公署其他公私諸団体及諸機関トノ研究上必要ナル聯絡

八、其他本研究所ノ目的達成ニ必要ナル事項

すなわち、従来の東亜経済研究所および東亜法制研究所の規程に比して目新しい点は、第四条の第三、五、七号にいう、調査研究の指導育成およびその受託と、官公署等との連絡を掲げたところである。

 右規程では職員として所長(総長兼任)一名、理事、所員若干名と、他に役員として参与、賛助員各若干名を置くことを定めているが、その他に数名の幹事が嘱任され、政治経済学部関係では初め教授川原篤が就任したが、その出征(昭和十九年六月)後は教授小松芳喬が跡を継いでいる。こうして規程が作成され、人事が整備された上で、七月二十二日に開所式が挙行された。その後八月二十二日に田中所長が逝去したため、新総長中野登美雄が二代目所長を兼任することになったが、この頃、前商工大臣でビルマ政府最高顧問であった小川郷太郎と、前ブラジル大使で南方司政長官の林久治郎(明三六英語政治科)とを新たに研究所顧問に迎え、研究意欲の盛んなところを示した(『早稲田学園彙報』昭和十九年十月二十五日号)。しかし実際には、戦況の苛烈化に伴い、新研究所設立にも拘らず、結局開店休業に近い状態に追い込まれざるを得なかったのであった。この新研究所設置を報じた『早稲田大学新聞』が、同じ紙面に、学徒錬成部拡充の反面、政・法・文・商各学部と高等師範部の事務所を廃止し、統合して新たに法文科事務所が設置されたと報じているように、戦時下やむを得ざる機構縮小を余儀なくされたのであったから、興亜経済研究所に開始した学苑の戦時下人文科学研究が竜頭蛇尾に終ったのも、またやむを得ざる仕儀だったのである。

 なお、興亜人文科学研究所は戦後人文科学研究所として再生し、更に社会科学研究所に引き継がれるが、今日社会科学研究所所蔵の多くの戦前のアジア関係資料は、東亜経済資料室以来の収集物なのである。

三 学徒錬成部の消長

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 学徒錬成部は錬成活動の一環として昭和十八年一月二十一日以降冬季鍛練を約二週間実施し、全学苑の学生・生徒に対して耐寒訓練を課したが、翌十九年には、極寒深雪の地で大自然の猛威と戦っている将士の敢闘を偲んで、一月二十八日より二月八日まで耐寒心身鍛錬を行った。この十九年の鍛錬は、十八年三月二十九日付で文部省から通達のあった「戦時学徒体育訓練実施要綱」に、

(一) 戦力増強、聖戦目的完遂ヲ目標トシ、強靱ナル体力ト不撓ノ精神力トノ育成ニ力ムルコト

(二) 特ニ男子学徒ニ在リテハ卒業後其ノ総テガ直チニ将兵トシテ戦場ニ赴クベキヲ想ヒ、之ニ必要ナル資質ノ錬磨育成ニ力ムルコト

〔中略〕

(四) 全学徒ヲシテ正課ヲ含ミ必ズ毎日一回以上適切ナル体育訓練ヲ実施セシムルコト

とあるのに基づき立案されたもので、右の期間全学生に巻脚絆着用での登校を求め、毎日午前十一時から所属ごとに左のように場所を定めて基本体錬を実施した。

各学部 大講堂前 第一高等学院 戸山道場 第二高等学院 甘泉園 高等師範部 図書館前

専門部法律科 戸塚道場本塁側 同政治経済科 同一塁側 同商科 同二塁側 同工科 同三塁側

そして、「イ 早起の励行、ロ 徒歩通学の励行、ハ 時間の厳守、ニ 剛健耐寒服装の整備(外套、襟巻等の禁止、薄着の奨励)、ホ 敬礼、姿勢、態度の厳正、ヘ 其他学徒十戒の生活」の六目標に向い、徹底鍛錬する方針であった(『早稲田大学新聞』昭和十九年一月二十日号)。なお、右の「学徒十戒」とは昭和十七年に学苑が制定したもので、左の如くである。

一 容姿は端正にして毅然たる態度を持すべし

一 服装は質素清潔にして整然たるべし

一 言語は明晰にして簡潔なるべし

一 礼節は厳正にして謙譲なるべし

一 挙止は粗野を慎みて高雅なるべし

一 対話は対者を正視して辞令を慇懃にすべし

一 食事は静粛にして作法を厳守すべし

一 規律節制を重じ行住坐臥一定の規範を立て之を恪守すべし

一 稠人広座の間にありては特に親切を旨とし其言動を慎むべし

一 公明正大と勇往敢為とは青年学徒の真生命なりと知れ (早稲田大学学徒錬成部『日常生活指針 学徒十戒』)

 また十九年になると、小金井に設置された文部省の教学錬成所に合宿中の全国の高等学校教授らが、一月二十日に久留米道場を訪れ、専門学校生に実施される錬成教育を見学すると同時に、学徒と生活を共にして学苑の錬成教育の体得に努めることになったと、同日付の『早稲田大学新聞』に報ぜられている。夜間学生には通常の錬成は行われなかったが、たまたま専門学校生百余名が一月二十四日から石川島造船所に増産挺身隊として派遣されることになったのに備え、一月十八日から二十三日まで、久留米道場で特別の錬成が行われていたのである(同紙 同日号)。

 なお特別の錬成について付言すると、この前年いわゆる学徒出陣に際し、昭和十八年十月七日の理事会は「入営学生ニ鍛錬実施」を決定し、専門部学生に十月十八日より十一月二十日まで特別心身鍛錬を施し、また入営学徒一般に対し十月十一日より二十日まで特技訓練を錬成部が担当して行った。また専門学校生で海兵団入団が決定している者の中の有志二十余名に対しては、十一月二十、二十一日の両日久留米道場に合宿させて錬成を行った(同紙 昭和十八年十月十三日号、十二月五日号)。

 学徒錬成部を新設して錬成教育を施すことは全く新しい試みであり、その成否は未知数であったから、この発案・運営に当った田中総長以下の責任は重く、全力を揮って事に当らねばならなかったが、その努力は、先に見た如く、外部からも評価され、一応報われたと言えよう。その結果十九年四月には、学苑の職制大改正に際し、従来の報国隊関係と勤労動員関係の事務は学徒錬成部の所管となり、学徒錬成部には新たに訓練課、動員課、保健課が併設され、大世帯となるという、他の事務所とは正反対の現象が見られた。しかしそれも束の間に過ぎず、戦争の進展は過酷な現実を生み、戦時態勢の申し子と言うべき学徒錬成部の存立さえ許さぬようになった。戦争の影響の第一は、先に述べた学徒出陣と通年勤労動員に起因する登校学徒数激減とであり、第二は軍命令による錬成施設強制借り上げであった。すなわち施設について見ると、先ず十九年七月十一日の理事会で、東伏見道場の埋立てに関する覚書を中島飛行機会社多摩製作所と交換する決定があり、十月十四日同道場を同会社に貸与することになった。更に二十年になると、三月二十日には久留米道場の一部の軍部への貸与が決まり、また甘泉園道場の一部土地の陸軍航空本部経理部への貸与も決定した。こうして学徒の出征と通年勤労動員とで、錬成すべき学徒を失った上に、必要な施設を次々と手放さざるを得なかった学徒錬成部は、もはや存立の基盤を失ってしまった。そして遂に昭和二十年四月二十七日の定時理事会において「学徒錬成部ヲ廃止スルコト」が可決され、五月十五日には維持員会で決議された。なお、その業務は五月一日付で学生課に引き継がれることになり(『早稲田学園彙報』昭和二十年五月一日号)、かくて一時期脚光を浴びて華やかに見えた学徒錬成部の歴史は、まことに呆気なく幕を閉じたのである。学徒錬成部の生みの親であった田中穂積が、このような悲惨な末路を見ずに前年に逝去したのは、せめてものことであったかもしれない。

 智育、徳育と並んで体育を重視する考え方や、体育の一環として農耕などの勤労作業を採り入れることなどは、それなりに意義のある教育で、しかも文部省などの強制を受けてではなく、学苑が率先してこれを「錬成」として実施したのは、一つの見識と見ることもできよう。しかし、「道場型方式と、……『午前学科午後錬成』という……カリキュラム編成など、……高等教育機関錬成の一つのモデル・ケース」(寺崎昌男・戦時下教育研究会編『総力戦体制と教育――皇国民「錬成」の理念と実践――』一八五頁)として一部の人々の発案により発足した学徒錬成部の事業は、誤解され易い面を持っていた。学徒錬成部の事実上の発案者である杉山謙治が文学部教授会で錬成生活について説明したとき、ある老教授が教員の錬成生活とは一体誰が教員を錬成するのかと色を成して質問したというのは、その一例である。杉山は「先生方は自己自身を錬成するのです」と答えたが、このような行き違いが往々にしてあったらしい(『早稲田大学彙報』昭和二十三年六月二十日号)。杉山は第二高等学院長故杉山重義の長男で、重義は若年のころ「福島事件」(県令三島通庸が同県の自由党員に大弾圧を加えた事件)に連坐しており、その血をうけて謙治も国家権力的なものにはかなり反抗的であったと、杉山に親しかった滝口宏は評価している(「学徒錬成部」『早稲田大学史記要』昭和五十三年三月発行 第一一巻一五二頁)が、時局に禍いされてか、当時の言動を見ると必ずしもそうは見えず、その点からも誤解を生む余地があったようである。加えて、田中総長や、欧米の高等教育を視察して詰め込み主義の教育を改善し、正課の授業は午前中に絞り、午後は音楽や体育を含めた課外教育に力を注ぐべきだと考えた杉山謙治などの純粋な教育論から出発した方向と、実際に教育指導に当った現場教員の時局迎合的行動との間に懸隔があったと見られることは、学徒錬成部にとって不幸であった。日中戦争から太平洋戦争と続く非常時局に際して、ナチス的発想や皇国史観的思想の強要、あるいは時局に便乗した軍国主義的教育が、同部の実施した「錬成」に全くなかったとは言えないところに、せっかくの企図が十分に生かされずに終った悔いが残るのである。